- 【アパッチ部落】鉄屑を略奪し売りさばいた在日コリアン集落 大阪府大阪市 A Korean settlement in Japan that once plundered iron scraps,
- 【若松遊郭跡】”私娼窟”積出港に栄えた赤線地帯とバラック群 福岡県北九州市
- 【スラム跡】かつての被差別部落〝中津〟と在日コリアン 大阪府大阪市 Former Burakumin “Nakatsu” and Koreans living in Japan
- 【向野】食文化の源流。被差別部落と呼ばれた〝食肉の街〟 大阪府羽曳野市 The origin of food culture. “City of Meat” called Burakumin,
- 【東京・新宿二丁目】遊郭から男色が宿るゲイタウンへ 東京都新宿区 The gay town where the male color dwells Shinjuku-ku, Tokyo
【アパッチ部落】鉄屑を略奪し売りさばいた在日コリアン集落 大阪府大阪市 A Korean settlement in Japan that once plundered iron scraps,
(c) 路地裏さんぽ 大阪城の東側一帯に広がっていた軍事施設跡から鉄屑を盗み生活の糧としていた集団「アパッチ族」。鉄橋を渡り、川を越えて、鉄屑が残る …
洗練された大阪ビジネスパークのすぐ近くに、昭和で時が止まったようなこんな町並みがあるのが驚きです。
大阪に住んで居るのに知らない場所でした、すごい勉強になりました。
大阪城界隈へは観光で良く行く。今日は、目線の角度を少し変えて見ただけで別世界への 路地裏さんぽ。勉強になります。
通勤で大阪城公園をよく歩いていましたが、集落の存在は初めて知りました!
ここを題材にした小説の初見は開高健さんの日本三文オペラですね。屑鉄を回収することを鉄を喰らうと表現したことから作られたのが小松左京さんの日本アパッチ族です。作中で屑鉄を食べだして鋼の身体になって人類と取って代わる存在になった話です。血と骨のモデルになった人物は数人いますが、マキ虎のオッサンや和田アキ子の叔父さんもモデルの一人ですね。マキ虎のオッサンの娘は相続税の脱税その他で自宅を捜査されたときに現金で50億以上を段ボール箱に入れてたのには有名な話です。
今はもう痕跡はほぼ無いですが毛馬桜之宮公園のあたりにバラック家屋群と龍王宮がありましたね。2010年頃には撤去されちゃいましたが大阪市立大学のPDFが今でもみれるとは思いますがなかなか興味深かったです。
また大阪に行きたいな☺️
毎朝この中を通って通勤してますちょっと怖いけど近道なのでこの動画を見て怖い理由について理解しました
貴重映像ありがとうございます。
浪速金融道で知ったアパッチ族大阪城の近く 軍事工場だった場所アメリカはここを執拗に空爆したんですね終戦直前のその日までそうしなければ、世界の歴史が変わっていたかもしれなかったのですね
桜の宮ホテル街の川岸に、鉄屑屋が不法占拠してた謎がわかりました。船で運んでたんですね。少し大川の上流に行けば、樋之口バラックもありますし。
自転車で行けるような所に住んでましたが、子供の頃はもっとバラック然としてました。
すごく勉強になった
大阪砲兵工廠の空襲の話は凄惨なものがありますね。JR学研都市線京橋駅のOBP寄りの改札出てすぐ右に慰霊の石像がありますが、その凄惨さを分かりやすく記載されてます
そんな場所があったとは!😳
梁石日先生の小説のファンです。いつも楽しみに拝見しています。いつかここを動画にしてくださるんじゃないかと勝手に思っていましたので嬉しいです。音楽も素晴らしく、今回も泣いてしまいました。ありがとうございます
犯罪者ヲ許すな
なるほどOBPの東側が何故線路で隔てられて、道が無いのか不思議だった。そういうことか
昔テレビアニメで、アパッチ野球軍が有りましたが。懐かしいですね。
この辺りは昭和50年ぐらいまで、ゴルフ練習場がぽつんとあるだけで何もなかった。その後に開発されてビジネスパークに!昨日のように覚えてるよ、アメリカ村も同じ光景が
【若松遊郭跡】”私娼窟”積出港に栄えた赤線地帯とバラック群 福岡県北九州市
(c) 路地裏さんぽ かつて国内随一の石炭の積出港として隆盛を誇った北九州若松区。その繁栄の一助となった遊郭跡と私娼窟のバラック群を覗く。
大学生の頃、実家が若松にあって、休みの度に帰省してましたが、赤線の一角がある事は知りませんでした。昭和60年頃ならまだ娼館はあったんですね~。洞海湾の雰囲気が大好きでした。
久しぶりに拝見しました。福岡県とは言え、私が住む福岡市とは文化圏(歴史的にも)違う北九州。いまでも古い長屋造りがあるのですね。いつ見ても素晴らしい動画です。色々な生き様や哀しみが画面の奥から伝わって来ます。最近は廃墟探索動画にハマっていましたので、再びここを拝見しながら人々の営みの業を妄想しております。ありがとうございました。
北九州は、こういったトタンの家も多くて…小さな市場も色んな町に有ったんですよね。こういうのを見ると故郷を感じます。
動画に一瞬写った例のアーケード街や最初に出てた建物の近くを何回か通ってましたが、ここ一体のなんとも言えない説明し難い空気感の謎が解けました。目新しいカフェがありここ数年で急に手が加えられた雰囲気を感じてましたがやっとスッキリしました。古くから栄え立派な建物があるから、街が豊かだった証拠なのだろうが、他の街なら見当たる様な、御屋敷や一緒に栄えたであろう生活感のある老舗のお店がどうも見当たらない。あるのは安っぽくボロボロになりながら残っできたであろう商店。その商店も栄えた雰囲気は見当たらない。近くに大きなスーパーもあり商店街も駅もあるけど、どうも夜に1人で歩こうとは思えない不思議な空気を感じましたが、こういう歴史があったと知り、やっと謎が解けました。
小さい頃、若松に住んでいました。千代の動画といい、自分の知らない過去を動画にしてくださり、とても好奇心をくすぐられます。
めちゃくちゃ地元なのに!凄く興味深く観ました。裏路地を散歩したくなりました。ありがとうございます
よくそのエリアまで侵入しましたね💦自分は行けないかも。少し離れてはいますが地元民です。
地元民です。面白い動画ありがとうございます。なんでも、若戸渡船の戸畑側も赤線地帯だったらしいです。戸畑側は工場地帯なので若松程廃れてはいませんでした。
実家の近所です。50年ほど前は、家の前を石炭を運ぶ機関車が走ってました。商店街も活気がありましたが、今ではすっかりゴーストタウンです。
何回も拝見させていただいてます、自分も昨日行って来ました、無くなるまえに写真でも撮ろうと思い、1時間歩きましたがよくわからなかったです、自分にとっては最高の動画です、夢も見ました
素晴らしい探訪。
面白い!興味深いです。こんな所があったの?と驚かされます!
かつて若松住んでいました。真偽の程は分かりませんが、連歌町の辺りは、「昔惨めな思いをした女性らの幽霊が出てきて、若い女の子は祟られるよ。」と祖母が申しておりました。
私も若い頃、若松が安くて何度も5000円でお世話になれました懐かしいです
やはり無くなってしまいましたか😢 近いうちに小倉まで行く予定なので、ついでに回ってみようと思っています。本当に無くなったのか自分の目で確かめたいですね。
この辺りは純文学芥川賞「花と龍」の舞台。独特の匂いがある街。かれこれ40数年前、同級生も随分住んでました。ポン引き婆さんに「子供はウロウロしたらダメやが」、同級生の女のコの「私と付き合うならお金持ってないと」などなど……この動画を観ながら色々思い出しました。今になって思えば、あの子の家も?今は何してんだろか?
急にオススメ出てきて焦った若松住みの高校生です( ◜ω◝ )若松にもこんな場所あったんですね〜栄えてた時期に生まれたかったです(´・ω・`)遊ぶに行く時に若松の商店街通るけどまじでシャッターしかない!笑がちのシャッター街過ぎて笑える笑地元のまつりも出店がどんどん少なくなって縮小化されてます(;;)昔は栄えとったんよ。とか言われても信じれないくらいに人がいない、、いてもおじいちゃんおばあちゃんですね笑ここ数年で無くなりましたが赤ちょうちんというお魚メインの料亭?的なのがあってちっちゃい頃よく連れて行ってもらいました、、、高校生からすると遊ぶ場所もないしどうにか人が増えないかな〜と言う気持ちです(;;)
18年前位は若松に立ちんぼがまだ居たそうですでもかなりの高齢今は知らない。
小学校の時校区だったけど通学路としては行ってはいけない決まりになってたけど年上の男子が行ってたので行ってみたりしてました笑笑歩いたらすぐつくのでそんな歴史のあるところだって思ってませんでした笑笑ここら辺猫多いですよね笑笑
懐かしい、遊びで5000円、本番で、10000円でした、50才位の方が多かったですね高校生の頃小倉からよく土居町に通いました懐っかしさと何か寂しい気持ちになりました、動画有り難うございました
【スラム跡】かつての被差別部落〝中津〟と在日コリアン 大阪府大阪市 Former Burakumin “Nakatsu” and Koreans living in Japan
(c) 路地裏さんぽ かつて〝皮多村〟と呼ばれた被差別部落。差別を受ける者同士は、ときに助け合い、ときに互いを差別した。在日コリアンの集住に伴い混沌 …
中津は空襲を逃れた古き良き家、それを改築したカフェで有名な街だと思ってた。このような歴史があるとはしらなかったので、また散歩してみます。
中津や中崎町は古民家カフェなどがあるお洒落な町だと思っていました。昭和な雰囲気の古い建物がある一方で、近代的なタワマンが立ち並ぶ表通りとの対比がなんだか物悲しく思えてきます。
20年前、大学の研修企業が中津にあって、1週間ほど通いましたが、梅田から近いのに廃れた商店街があるという程度の印象でした許永中の故郷だというのを知ったのも最近ですが、高架下など昭和の雰囲気が残ってたのはそういう理由があったんですね
40年近く前、淀川区に住んで居た頃がありますが、御堂筋線利用でも中津では降りる事は皆無、超えて梅田から先でしたね。淀川区でさえ駅周辺以外は低層家屋が多く、長屋造りの家屋も多々あったような気がします。初めて体感した大都市が「大阪」でしたので、その後「東京」に移ってもあまり実感は湧かなかったです。今回も勉強になりました。ありがとうございました。
この手の町…今までこのチャンネルの動画をいくつも見てきたお陰で共通点が分かってきました。身近な場所でも、急に不自然な程開発されてない町や通りに出会すと「!」とくる様になり、スマホで調べると「…やっぱり…」となります。でも、そういう町が好きです。
25年前の中津を知っていますが、その当時はすっかり被差別地域ではなかったですよ。ただ、この地区の歴史を引きずる住人と他地域の住人の心理的認識は違ったかもしれないです。要は意識される程差別意識は無くなってきています。社会的にもほぼ無いです。けれど朝鮮部落に関しては簡単ではないですね。
2021年末まで中津に住んでたけど、梅田と十三に挟まれてるとは思えないほど静かで快適な所だった。色んなところを転々としたが中津が一番好きだったなぁ。夜に出歩くと大体Gと遭遇するのはアレだけど。
お洒落なカフェとか、高層ビル、大きな病院とかのイメージ中津やったけど、下町感あって、好きな雰囲気やけどね。私も、市営団地で、6畳二間のところで育ったから、狭い方が落ち着きます。離れた所にニコイチもあって、友達の部屋が物置?プレハブ建てて増築してたけど、何故か和んだなあ。高校に上がる春に父親の実家に家族で帰って部屋いっぱいあって庭の木の掃除とか、田舎の方が不便やなと思った。田舎の付き合いも面倒やし。
田舎から上京した友人が、中津でアパート暮らしをしていました。「中津ってどんな感じの所?梅田に近いし便利?」と聞いたら「・・・変わった所・・・」と、言葉を濁してました。2年を待たずに引っ越してしまったので、彼のアパートを訪れる機会はありませんでした。一回行ってみたかったなぁ。
京都在住時代、梅田界隈にアルバイト先があったので、阪急で時々通っていました。中津は、その間通過地点でしかなかったのですが、許永中の生まれ育った地元でもあり、同和地区・在日韓国人の集住地区でもあったことを知ったのは、遥か後、関西を去ってからでした。日本には、要所要所にそのような歴史をもつ土地が数多く残されおり、私自身も、ゆえあってそのようなことにも目を向けねばならなくなって、記憶や事実を風化させてはいけないことも多くあると思うようになりました。自分が生まれた昭和の日本の原風景にもつながる場所を忘れることが恵みではないとも思います。私たちの「普通の生活」を支えるものの中には必ずしも私たちが「普通でない」と思うものがあることも事実です。許永中の著作からの引用や路地裏さんぽさんのキャプションを見ながら、YouTubeの中であっても、中津の街を案内されて探訪する時、人が暮らすことの根っこにふと触れる思いがするのです。
許永中さんの書籍は二冊とも読んでいるので当然の事ながら中津は一度行ってみたいところでした。当時、この地区に凄い豪邸が建っていたとかでした。
1度目は文章をしっかり読み、2度目は画像をしっかり拝見するスタイルで(過去の動画も、全てそうして、拝見してます)許永中氏は、許されるような方ではありませんが、引用文章を拝読すると、その地でそうやって暮らすしかなかった(同胞と共に) 一種の強さを感じました。
このような住宅が立ち並ぶ所を、鍵盤地区ともいっていました。地図で見ると、ピアノの鍵盤🎹のように見えるからです。ノスタルジックな雰囲気がしますね
中津が被差別部落だと初めて知った!西中島南方、新大阪、中津と御堂筋線沿いに部落が続いてるとは、、でも、便利ですよね住まないけど、、
中津にはエジプト料理店があり、知り合いと食べに行きました。羊の脳味噌とか…鳩肉とか…インパクトは凄かったです。
こんなことをして慰められるのかなぁ〜。
スラムと呼ばれた場所とこの長屋の場所はまた別です。
本当に、よく調べてますね、実際に大阪にはたくさんありますね、部落、路地があります。私の近くも朝鮮部落です。
長屋を改装したレトロな宿やギャラリー、下町情緒あふれるおしゃれなカフェ、ランチ時には列になるとってもおいしいカレー屋等、素敵な所もたくさんある中津です(^^)路地裏ばかりではなく、ぜひそういった中津の一面も知って欲しいなと思いました。
中津は地価が高いですがこの地区になると売れないでしょうか?
【向野】食文化の源流。被差別部落と呼ばれた〝食肉の街〟 大阪府羽曳野市 The origin of food culture. “City of Meat” called Burakumin,
(c) 路地裏さんぽ 関西の食肉生産の発祥の地は「向野殺生方」「屠者村」と称され、被差別の扱いを受けてきた。 屠畜を生業とする〝食肉の街〟として日本の …
更新お疲れさまでございます、更池と対をなす日本の食肉業を語る上では大事な場所ですね普通は人が嫌がるような仕事をする方は卑下されてしまいますが、携わる方々のお陰で今の食卓が華やかになった事実を忘れてはいけません食材と、その為に用意をしてくださった方に感謝を常に忘れないようにしたいです
いつも美味しくお肉頂いてるので感謝です
食文化を支えて来た人々を、差別する。人は自分より下位の者を作ることによって、自分の地位に満足し安心しなければ不安で不安でしょうがないんでしょうね。美味しい料理をいただく時には、食材に携わってくれた人々のことなど、目に見えない事にも、思いを馳せてみたいと感じました。
こんにちは😊大阪好きの私も勉強なるねこんなに色んな事書いてくれて大阪の歴史がわかる作者も勉強したんだろね日本の歴史を凄いですね
この近辺って同じ苗字の家や肉成金の豪邸も混ざってたり不思議な場所でした
今ではみんなそういう人たちのお陰で私たちは美味い肉を食べることが出来るのだ、ということは頭では分かっているんだけどねえ……悲しいことだね。
向野にある青少年児童センターというところの体育館は、羽曳野市や藤井寺市のバスケ好きの溜まり場みたいな場所で、部活がない日はそこで練習したりしています。ちなみに、向野の子たちが通う中学校はバスケの強豪校です。
向野ではありませんが、隣の高鷲に住んでました。向野にあった食肉の会社に勤めていましたが、今はその会社があった所は更地になっているのをグーグルマップで見ました。
関東民ですが、数年前、寺門ジモンの漫画で取り扱われた、この動画にも出てる食堂を訪れるため、向野に行きました。残念ながら食堂は廃業しており、前で立ちすくんでたところ、軽トラに乗った地元の爺さんが「道に迷ったか?」と軽トラに乗せられ、向野から外に出されたことがありました。たしかに、よそ者が歩いているのは違和感を感じる場所でしたね。
上原善広さん著「路地の子」を手に入れました。早く読みたいのですが、お正月休みの楽しみに今は本棚に飾ってあります。よく言われる「職業に貴賤はない」というのは現実にはまさにその貴賤があるからなのでしょうね。人の運命というのは、その出自も含めて本人でさえどうにもできないものです。それを他人が責めるか、それともそこに踏み込まず触れないでおいてあげるか・・人間の思いやりがそこに全てあるような気がします。
見たことの有る道でした。たまにこの近くのホームセンターに行くのですが知りませんでした。
なんか涙が出ました。自分は産まれも育ちも播磨で周りは同和地区だらけ。昔は同和地区に入ったらこういう独特の景色と雰囲気、ニカワを作る悪臭ですぐわかったもんです。同和事業でどこも綺麗になりましたがまだこんな光景がある事にびっくりします。昭和40年くらいで止まったような雰囲気ですね。
仕事の関係で向野の団地に住んでいた事も有ります、(ひかり湯)にも生きました!(食肉業界)の帝王(ハンナン)の浅田満会長は大豪邸に住み、(山口組五代目渡辺芳則さん)と懇意にしていたので神戸まで高級牛肉を贈って居たそうです!
毎年9月か10月に、肉祭りやってます。音野、八光の裏?前?近所の広場でw 安いかどうかは分かりませんが,すき焼き用1パック1500円2つ購入した事が有ります。めちゃめちゃ美味しかった~♪GAMEやダンス等してて楽しそうでした^^私は肉買ってすぐ帰ったけどチャリンコや原チャリならゆっくり出来そうです。去年と今年はコロナでしなかったので来年はしてほしいですね☆彡こういった(祭りなどで)他の人と触れ合う?のは良い事だと思いますヽ(^o^)丿
向野に住む子達がその校区の学校に行くのを嫌がって越境通学してきてる子がチラホラいましたね。
忌み嫌う。仏教が産んだ多いなる負の遺産ですな。生活の上で欠かせない職業民が差別されて来た事は哀しい限りです。今、現代社会でも職業は異なってしまいましたが、日雇い仕事(土木、建築、清掃、運送、等)飲食業等、肉体労働者に対する職業差別などに垣間見ることが出来ますね。日本の陰の世界、いつも楽しく拝見しております。今回もありがとうございました。
こんなに人が居ない街があるとは…駅も人気がなくて不気味
溝口敦 週刊現代連載のルポは読み応えが有りましたな、 浅田 海原 赤い川...
食肉の帝王の家は今、老人センターへ、オオクボも無くなりましたね。ところで海原(カイバラ)さんって、まだ住んでらっしゃるんでしょうか?
映像に出て来る「萬野総本店」は、松竹芸能の松嶋尚美(オセロの白)の親戚。で、その松嶋は蛇草地区(東大阪市)出身。
【東京・新宿二丁目】遊郭から男色が宿るゲイタウンへ 東京都新宿区 The gay town where the male color dwells Shinjuku-ku, Tokyo
(c) 路地裏さんぽ かつて広がっていた娼婦が行き交う遊郭から一転して、男色が宿る街へと変貌を遂げた新宿二丁目。〝よそ者が集う吹き溜まり〟として …
20代の頃の思い出の場所。とにかく楽しかった。同じ境遇の人がこんなにいるのかと衝撃を受けた。そこに居るだけで共通点があるから色んな職業や地位の方ともフランクに会話が出来て、週末がいつも楽しみだった。毎週末がお祭りのようだったなぁ、楽しかったなぁ☺️
きちんと歴史的な背景の時代考証もされてますし、観るに値すべき素晴らしい動画に仕上げられてますね👍
なるほど!歴史を紐解くとなんか感慨深い街なのですね。いつか行ってみたいな
素敵な動画を毎回楽しませてもらっています。音楽も印象的でいいですね。雨上がりの風景によく似合います。横浜、黄金町付近の地元民として、いつか「真金町」も取り上げていただけたら嬉しいです。街の様子はずいぶんと変貌してしまいましたが。
遊郭から今のゲイタウンに変わった歴史は知りませんでしたが、よく考えてみたらどちらも流れ者と呼ばれる人々の受け皿になっていた背景がありますね……閉鎖的な場所、という印象がありましたが観光バーと呼ばれるオープンなお店ができたのも時代の流れでしょうか……路地裏さんぽさんの動画は書籍からの引用もあるので動画を見ているはずなのにとても詩的な感じがして好きです体調にお気をつけてください。
なるほど…旧遊郭跡に色々なマイノリティが流れつき、その中の最大勢力がたまたまゲイの人達だった…って経緯で今に至るんですね。誰かがここにそういった人達を集めてパラダイスを築こうとした訳ではなかったんですね。アフターコロナ禍でこの街もまた少し変容して行くかもしれませんね。
この間久しぶりに行ったら、すっかり開かれた街になってて驚いた。2000年初頭の頃はもう少し淫靡な感じだったけどなぁ…
昔よく荒木町や新宿三丁目の飲みから流れてニ丁目のバーに行きました。オープンで明るいLGBTの街という印象で女性が入れる所は満席のことも…今でも世界堂に行く時懐かしくなります。
50年ほど前になりますが地方の田舎から新幹線に乗り、右も左も分からず雑誌だけを目宛に一人新宿御苑辺りをさ迷い歩いたあの頃を思い出します..結局二丁目には行けず帰りましたがあの頃の自分の下半身事情、が懐かしいですまだ16でした、、
なんか、引き込まれる懐かしさ
すごく考えさせられました。ゲイという言葉は差別用語のように思っていました。しかし、今よりもずっと生きづらい時代に新宿二丁目を(故郷)と思われていた当事者を思うと、この場所があったからこそ彼らは輝けたのでしょうね。
動画よく拝見してます☺️どの動画も歩行者があまり映ってなくて、BGMも相まって良い意味で不気味で好きです早朝のお散歩でしょうか?
いつか行ってみようと思ってる早くコロナが収まれば…
男兄さん(おにいさん)というパワーワードw
この街に行ったのが、五年前でした。ノンケの私にも優しかった。コロナが終息したら行きたい。その時迄お金貯めないと~🌠仕事も頑張る💪
ノンケだけど、遊びに行ってみたいw
1993年に同窓会というドラマで2丁目が有名になり僕も初めて足を踏み入れた。あの頃はもちろん携帯もネットも一般普及してなかったし今みたいにオープンでもなかったからもう少し隠れたエリアだったと思う。バーで出会った人の家に泊めてもらったり、カフェで本読んでた時、目の前のイケメン兄さんがじーっとガン見してきたのは今でも覚えてる。あの時バス出発待ちじゃなければ……ねw
ナイス👍全てにおいて欲望の街新宿😤
「故郷」か……重たい言葉ですね。
東郷健が親類にあたるので(実際には会うことはできませんでしたが)、一度は訪れてみたい街ではあるものの、女性は敬遠されそうでまだ行ったことは無いです。
コメント